へべすの伝説にせまる へべすの歴史 part1.
日向市のへべすにまつわる伝説
宮崎県日向市にはへべすにまつわるとある伝説がある
それは
江戸時代末期(天保・弘化年間)に老農 富高西川内の
長曽我部平兵衛が山中に自生する木酢(へべす)を発見。
引用http://www.hyuga.co.jp/hebesu/history/index.html
今回は、この伝説について
「平兵衛物語」の内容をがっつりと引用しながら紐解いていこうと思います
現在へべすに関わる方たち(へべすくんも含む)に「へべすってなんですか?」と聞くと、
宮崎県日向市にある伝統的な香酸柑橘で、長曽我部平兵衛さん(へーべいさん)って言う人が見つけたところからへべすっていう名前になった柑橘です。香りは…かぼすやすだちとの違いは…使い方は…
と続くと思います。
でも、ここで疑問が生まれました。
へべすは
なんで日向にしかないの?
僕のへべすの歴史を探究するきっかけはここからでした
本来ならばもっと
- なぜ日向市でしか栽培を行なっていないのか?
- へべすの苗木の生産は誰がしてるのか?
などが最初に出てくる疑問なのですが、今回は直で平兵衛さんが実在したのかどうかを掘り下げようと思います。
平兵衛物語
いよいよ本題
へべすについて述べてある平兵衛物語には次のように書かれています
『地方名を平兵衛酢といいふるくから人々に親しまれその由来は江戸時代末期に平兵衛という人がこの木酢を育てたからと伝えられてきた。ながいあいだ、富高の平兵衛さんが果たして実在したのかどうか、確かな記録もないためわからなかったが、ようやく天保、弘化年間にかけてこの西川内に平兵衛なる人物がいたことが確かめられたからである。
明治のころまで、いまの日向市市街地を新町といい、一般に富高といえば、本谷、西川内のことであり50年以上の平兵衛酢の木が多いのもこのうち西川内であるのでこの地が平兵衛酢発祥の地であることは疑う余地はない。』
とへべすについての記述があり、
この後へべすが広まったきっかけについて述べられ、その立役者となった「河野城一郎」という人が出てきます。彼は昭和5年に県立富高実業学校を卒業し、へべすの苗木200本を接木によって育てた人です。彼については、後ほどご紹介するのですが、流れとしては、
河野城一郎さんがへべすを作るきっかけとなったのは、姉からの話で、へべすを栽培するために姉の嫁ぎ先からへべすの苗木の元となる穂木をもらいました。
で、その穂木をもらった姉の嫁ぎ先は「長曽我部」という姓で、その家にはひときわ大きなへべすの木があったということらしいです
『これらのことから、富高の平兵衛さんは長曽我部家の祖先と考えられていたが、塩見の正法寺の記録でもそれは確かめられた。その記録の中には平兵衛という名は3人みられた。そのうち一人は土橋(門川)他の一人は塩見。富高西川内の平兵衛は、天保4年(1833年)父道達の葬儀の喪主をつとめている。』
との記述がありました。
まとめると
長曽我部平兵衛さんは実在しました!!!
この『平兵衛物語』では
富高の平兵衛さんがへべすを育てた人
とされていました。
けど、僕は3人の平兵衛さんの内、へべすの平兵衛さんがだれなのか実のところまだ曖昧なのではないのかなと感じました。
そして、平兵衛さんがへべすを品種改良で作ったのか、本当に山中から発見したのか?
この疑問に関しては次回以降掘り下げていけたらと思います。
ここまで見ていただけた方ならわかる通り、この『平兵衛物語』には日向市の地名がたくさん出てきます。もっと解説すると、日向市が合併などをする以前のお話も多くあるため、現在の地域区分と異なっているところが多々あるっぽいんです。
なので、そもそもこの小論文を読みながら、地理的要素をイメージすることは地元の人じゃないとかなり難しいかなと感じました。
前回、「平兵衛物語」について要約していくと言いましたが、やっぱり難しぃ
正直言って、どういう切り口でお届けするかが一番まとまりませんでした。
そこで、みなさまにへべすについて少しでも興味・関心を持っていただけたらという気持ちでこれからもご紹介していこうと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました。よかったら別のページもご覧ください。
では、また次回お会いしましょう〜へべべ〜
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